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※2 “ブリュンヒルド・モチーフ”が少女のジュヴナイルという「主題」を有することについて、河合隼雄『昔話の深層』講談社+α文庫が詳しいです。ここで語らえていることは、少女の成長には「つむの一突き」が必要だが、その「一突き」を受け入れるには「時」が必要である、という事です。ここで「つむの一突き」とは、生理や初恋など、少女が自分の性を初めて認識する事象を意味します。
ただ、本当に少女のジュヴナイルを語るのであれば、ここで“ブリュンヒルド・モチーフ”というのは不適切でしょう。例えば、シンデレラやラプンツェル、白雪姫などを広く統合した「王子さまのキス」という概念を創造する必要があるやもしれません。とりあえずここでは、わかりやすい例示として、「眠れる森の美女」すなわち“ブリュンヒルド・モチーフ”を使うことにします。
また、この、フロイト(ネオ・フロイトを含む)的、ユング的アプローチに対しては、実は批判も多いところです。これら精神分析、夢分析などを用いた手法は、類話との比較なくその単体の民話で分析をすることが多く、そのお話単体の特異性を広く一般化する危険性があるからです。実際、ヨーロッパには、男子のシンデレラストーリーがあるそうで、各国の“ブリュンヒルド・モチーフ”との比較なしには、少女のジュヴナイルが「主題」であると断言することは早計でしょう。私も、前例で挙げた「金の摘糸」には、少年の“ブリュンヒルド・モチーフ”を感じたことがあります。“ブリュンヒルド・モチーフ”が本当に少女のジュヴナイルを意味するのかは、断言できるものではありません。
ただ、仮にシナリオライターが、あゆシナリオを書くに当たって、「眠れる森の美女」を意識したのであれば、同時に、少女のジュヴナイルを意識した可能性は少なくないと考えます。
※3 婚約者はどうなるか?
「あなたは、私以外のどなたかと結婚することになるだろう」…個人的には、欧米人のこのセンスは大好きです。
※4 どうもいけません。この章は、どうしても名雪の設定を生かし切れなかったことに対するいらだち故か、あまり論理的な文章を書けなかったような気がします(その前に、そもそも本論考が論理的かという、手痛い指摘があるでしょうが)。
はっ…!それとも、もしかしてこれがキャラ萌えという心情なのか!?
※5 栞シナリオについては、その問題点のほとんどが、あゆシナリオと共通であると考えています。詳しくは、4.を参照してください。
※6 “影”とは、より正確にユング派の分析に従えば、普遍的影と個人的影を意味します。本文定義は、定義としては本来、不正確きわまりないのですが、本論考では、これ以上、深入りしないことにします。
この点は、私が未だ心理学に疎いこともありますが、それ以上に、一般に我々が考える以上に、心理分析・夢分析は危険なものであり、技術としても素人が扱うものではないという、友人の忠告に従うことに由来します。爆発物について知識のない素人が、爆発物解除をすべきではないのと同じことです。自分が墓穴を掘るのはともかく、他人に悪影響を及ぼすことは、決してしてはいけません。
※7 ただ、正直、私としては、舞シナリオはプレイしていて、辛かったお話でした。とにかく、中盤に同じようなシーンが繰り返され、中だるみが激しかったのがその主因です。
また、舞踏会から生徒会との確執への流れも、「機能」としては不明です。舞シナリオに突きつけられた「現実」とは、「まい」との戦いであり、それだけで「機能」「演出」としては本来十分なものです。ここで何故、「リアルワールド」としての「現実」を突きつける必要があったのか、物語としてはどうしても疑問が残ります。
その他にも、正直、私には、舞シナリオにおける佐祐理さんの立ち位置がよく解りませんでした。確かに、バックボーンとしては、舞は佐祐理さんの支えを必要とします。そういう意味で、舞にとって佐祐理さんは必要な存在です。しかし、それはあくまで、舞が現実社会で生きる場合においてです。舞シナリオはノンフィクションではなく、フィクション(物語)です。そう考えたとき、私には、佐祐理さんが舞シナリオに占める地位がよく解らないというのが実状なのです。「親友」というのであれば、シナリオの根幹となるだけの描き方というのもあるはずです。例えば、私が名雪シナリオで提案したような、名雪とあゆの関係のようにです。
佐祐理さんシナリオを用意するのであれば、おまけではなく、もっと、物語の根幹にかかわるような描き方をして欲しかったのが実状です。確かに、佐祐理さんシナリオこそ、少女のジュヴナイルの確たる例である、という主張は説得的であるだけにです(rinn氏、「源内考察」)。
舞シナリオは、前半で無駄なシーンが多かった分、一月三十日にしわ寄せが来ています。私にとっては、それが作品の評価を下げてなりません。
※8 正確に言えば、北欧の伝説にいくつかあるようですが、あまり一般的ではありません。また、その伝説の系譜と思われる、アンデルセン「人魚姫」を例に挙げることはできますが、人魚姫は恩を受けたわけではありませんし、そこまで連想できる「欧米人」は少ないでしょう。末節なので、ここではこれ以上の考察はいたしません。
※9 逆に日本人は、「動物は受けた恩を『嫁ぐことで』返す」という昔話を知っていても、「動物が恩を受ければ」「動物の姿のままで主人公に助言する」お話や「動物が嫁ぐ場合」「実は呪われた王子さまであった」お話を連想できないのが一般的でしょう(ただ、日本の場合、「グリム童話」が輸入されてきた歴史がありますから、「欧米人」の日本の昔話に対する認知度よりは高いのでしょうが)。
ここにどうやら、『ONE』が、一般的にファンタジーと認識されない理由があるようです。『ONE』のファンタジーは、「ケルト的」ファンタジーであって、「日本的」ファンタジーではありません。「神隠し」の類型の中で、「取り替え子(チェンジリング)」「妖精騎士」の民話は、「日本人」にはまだまだ一般的ではないのです。「日本人」が知っている「神隠し」といえば、せいぜい「浦島太郎」、それもともすれば、オカルト的に解釈されがちです。「取り替え子(チェンジリング)」というファンタジーを「日本人」が知らない以上、それをファンタジーと認識できなくても仕方がないのでしょう。『ONE』を意味不明と評する人が生じる由縁です(「ナンセンス。まったく持って意味不明である」)。
また、剛速球と見せかけて(学園ラブコメ)、手元で大きく落ちる変化球である(不条理物)との評を受ける由縁でもあります(「ファンタスティック!こんなお話は見たことがない」)(皇帝機構)。私に言わせれば、それは「取り替え子(チェンジリング)」という作品形式を知らないだけで、『ONE』自体は、「直球ど真ん中ストレート、但187キロの剛速球」(ジュヴナイルファンタジーとして)という作品です。『ONE』は「ケルト的」ファンタジーの王道と評しても良いでしょう。
一方『Kanon』は、『ONE』に比べると、真琴シナリオの「鶴の恩返し」をはじめ、あゆシナリオの「眠れる森の美女」など、「日本人」に比較的有名なモチーフが選はれていたようです。多くの方が、『Kanon』をファンタジーとして受け入れている由縁でしょう。
※10 ところで、私、真琴シナリオをプレイしている最中、『To Heart』のマルチシナリオを連想してしまいました。
なんというか、話の構造がよく似ているのです。そこで少し考えてみた結果、マルチシナリオは、実は“動物恩報譚”であるという結論に到ったのです。一般に、マルチシナリオというと、SFの古典的「主題」、「人とロボットの違い」を表現した作品と認識されています。まさにその通りです。
しかし、更に考察すれば、結局、「人とロボットの違い」という「主題」は、「人とは何か」、その一点をロボットとの比較で浮き彫りにしようとしたお話なのです。一方、“動物恩報譚”も、人と動物というまったく異なるものを交わらせ、動物に婚姻を迫られたときに人がどのように対処するか、それを描いています。その結論が、文化圏によって大きく異なることも、すでに指摘したとおりです。動物に対し、特に強い拒絶を見せる日本の“動物恩報譚”を見るとき、そこに「人と動物との違い」を考えさせられます。ここにも、結局は、動物との比較を通し、「人とは何か」という「主題」を見いだすことも、また可能なのでしょう。
二つのシナリオは、よく似ているのです。それに、マルチも、確かに、最終日に、浩之に受けた恩を返しに来ていますよね。ですから、マルチシナリオも、(少なくとも、私にとっては、)確かに、「鶴の恩返し」なのです。
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